コスパの限界

ここ1年ぐらい「コスパ」という考え方の限界を感じることが多くなった。

「コスパ」を追求すればするほど、
ミクロなPDCAから抜け出せなくなり、
大局では負けるというシチュエーションが増えた。
もちろん大局観を持った上で「コスパ」を追求する、
というのが一番なんだろうけど、
なかなか脳みそは器用にできていない。
不確実性が高い社会構造においてマクロな変動を掴むのは非常に難しく、
結果マクロな視点での「コスパ」なんてものは、
一部の天才を除いて認識できないものじゃないだろうか。
そもそも「コスパ」という考え方は、
投下するリソースと得られた未来リターンの差を計算することの追求である。
予想精度が高い物事において「コスパ」の追求は能力を発揮するが、
不確実性が高いマクロレイヤーで「コスパ」を追求するのは不可能に近い。
よって「コスパ」を追求する行為は、
ほぼミクロレイヤーの最適化をしていく行為と同義になりやすい。
そして「コスパ」の追求は、
ロジカルシンキングの延長線上に成り立つケースが多いので、
同じインプットという前提条件のもとだと、
同じアウトプットに行き着きやすい。
つまり「コスパ」を追求すること自体が、
金太郎飴的な発想に陥る罠になる。
また「コスパ」ドリブンで物事を考えると、
どうしてもディスプレイの前から動けなくなることが多い。
情報のインプットにしたって、
一次情報を得に行く努力が「コスパ」悪く映るケースが多く、
結果手軽な情報を得にいきやすくなってしまう。
実際のコンテンツやサービスを自分で試すことなく、
レビューサイトや批評を見聞きして知った気になってしまい、
重要な一次情報を取り逃すのである。
「コスパ」を追求すると、
インプットレベルで金太郎飴になり、
さらにそこの延長線上の最適化もロジカルシンキングに乗っ取るので、
アウトプットレベルでお金太郎飴になる。
この循環が「コスパ」の限界になっていると感じている。
「コスパ」的考え方がもたらす、
フラット化に抗うためには、
人と異なるインプットを得て異なるプロセスを実行することになる。
ここにきてこの状況下で価値創造できている人たちは、
「好き」を追求できている人だと思う。
「好き」というエネルギーは、
「コスパ」を無視して行動することを促せる。
なので己の価値基準を持ってその価値基準を強固にしていくような、
バイタリティを持ち続けられる人が新しい価値創造をしていける。
なので自分の中にあるコスパを無視できる感性を尖らせていくことが、
非常に大事になっていくなと感じている。
またそこに対してのアクションは「コスパ」無視で「贅沢な無駄」をしていかないと、
均質化に抗って新しい価値を生み出すことができないのだ。
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