勝手に物語を創り、勝手に落胆してしまう生き物

千野帽子さんの『人はなぜ物語を求めるのか』を読んでて、
「期待すること」に言及している話が印象的だった。

人間は世界をストーリー形式で把握し、新たな平衡状態に向けての事態進展・収束の弾道をシミュレーションする作業を、 自覚せぬままおこなっています。
無自覚なストーリー作りのことを「妄想」と呼びます。
人生に期待するということの大部分は、この弾道予測への期待です。
「がっかりする」とは、この無自覚な妄想的シミュレーションでしかないストーリーを「ほんとうの人生」と見なし、それと比較して現状を「贋の人生」にしてしまうことにほかなりません。
『人はなぜ物語を求めるのか』 /  千野帽子

人は無意味なものにも意味を見出すというが、
自分が生きている世界を無自覚に物語にしてしまう。
その中で勝手に「こうあったらいいな」「こうなれたらいいな」という、
理想像を自分の人生の正規ルートのシナリオだと勘違いしてしまうらしい。
そして勝手に「期待した」人生と目の前の現実を比較することで、
勝手に「がっかり」してしまうというなんとも身勝手な行為をしてしまう。

ーーー
まだ学生時代のころ、
「他人に”身勝手な”期待をするな」
と親父から言われたことを思い出す。

期待しない ≒ 他人に対して感情を抱かない無味無臭な冷たい人間
という認識でその当時は全然真意を理解できてなかった。
想像力が欠如していて、
「他人は他人の人生を生きてる」という、
至極当然なことも理解できていなかったんだと思う。

時間が経ち大学生ぐらいになってふとこの言葉を思い出してた頃は、
自分の人生を他人に委ねるんじゃなくて自分でとりにいかないと駄目だ、
という曲解していたような気がする。
ーーー

僕がかつて人生に期待し、たびたびがっかりしていたとき、「人生に期待することをやめる」という選択肢が存在することを知りませんでした。
物語論を研究していて、教えられたことのひとつは、「人生に期待することをやめる」という選択肢が存在する、ということです。
言われてみれば自分は、自覚せぬまま人生や他人にこちらの皮算用的ストーリーを期待し、要求し、期待したストーリーを世界がどれくらい満たしてくれるのか、一喜一憂、いや一喜百憂くらいのペースで採点してきたともいえるなあ、と思ったわけです。
自分が苦しいのは無自覚なストーリー作りのせいだったのか。なるほどね、と。
(中略)
それ以来、「人間は物語る動物である」と自覚することで、ストーリーのフォーマットが悪く働いて自分が苦しい状況に陥る危険を減らし、あわよくば「ストーリー」のいいとこだけを取って生きていきたいという、虫のいいことを考えています。
『人はなぜ物語を求めるのか』 / 千野帽子

もちろん世の中に対して「こうあったらいい」とか思うことによって、
そのエネルギーを使って良い方向に転じることも多々ある。
でもネガティブにふれたときは都合よく「変な期待しちゃってたな」と、
肩の力抜きながらフラットに捉えられるぐらいの方がいいんだろう。
『トランジション』という本のこの一節にも通じる。

人生は、生きていく過程で自分自身を語る一つの物語であり、他者にそれぞれの役割を演じることを要求する。
(中略)
夫婦になるということは、相手の物語に暗に組み込まれた役割を演じることである。
『トランジション』 / ウィリアム・ブリッジズ

物語を自ら生み出しているというメタ的な視点を持つゆとりを持てば、
相手の物語に対しての想像力も生まれ、
物事が円滑に進んでいく。

ただメタ認識したって物語を作らないことはできないから、
都合よくそれを使うという観点でいこう。

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